『アイデンティティ』

実は・・・(神妙な面持ちで。)

ゆるーくカミングアウトすると僕は脳みそにある特性をもっているのですね。それは例えば、落ち着きがないとか衝動的に行動するとか忘れっぽいとかといった特性なのです。それのおかげで社会や人との関わりがあまり上手くできないことが多いのです。また、ものごとにハマりやすかったり、かと思えば飽きっぽかったりと、ここでも落ち着きのなさと集中力のなさが際立ちます。

というふうに僕はなんともなかなか厄介な性質の人間なのですね。でもそれは病気ではないし障がいでもないのです。(強いて言うならこれが僕なんだよってことですかね。)まあ世間ではそれを発達障がいと呼ぶこともあるようですが、わざわざ書かないけども分かる人には分かることでしょう。とまあそういうことです。とにかく僕は紛れもない事実としてそのような問題を抱えているのですね。(本人は問題とは思っていないが、でもそれが問題なのかも知れない。)

ちなみに主に強く出てくる性質がADHD(注意欠如多動症)というものです。

ADHDって名前なんかカッコよくないですか。でも注意欠如多動症って「症」という字面だけ見せられると病気みたいですよね。でも病気じゃないんですよね。あくまでも個性、でも周りからよく言われるのは「変わっているね」ということです。

変わっているねなんて、絶対最高超絶的なお褒めの言葉ですからその度に僕はアリガタヤーなんて思っています。だからもっと褒めてね。

僕は別に他人に自分のことを理解してもらおうなんて一ミリも考えていないし、逆に他人のことをそんなに深く理解しようとも思っていない。しょせん人は人で自分は自分やしって、ちょっと冷めた目で世の中を見ておりますです。はい。

ADHDなどの発達障がいを抱えた人は才能が豊富で天才だなんて言われているようですが、そんなことねーよねって思っています。それって結局は周りが発達障害の人間でも生きていきやすいように気持ちを緩和できるように言っているだけでしょ。きつい言い方をすれば所詮は他人事でしかないんですよ。

当事者たちは自分のことを天才だなんて一切思っていないし、むしろ普通でいいからもっと楽チンに社会と付き合いたいと考えているんですよ。でも中には僕のように自分のやりたいことを見つけてそれを実際にやらせてもらえる環境や状況になった時には少しは能力を発揮するのかなとは思っています。だけどほとんどの当事者たちは自分のやりたいことを出来ず、社会や他人とも上手く向き合い付き合えずに生きておられるのですね。

 

なぜこのようなことをわざわざ書いたのかというと、僕がヨーガを継続している理由がそこにあるのではないかなと思っているからです。先に書いたようにそのような特性をもった人間だからこそヨーガで自己と向き合う時間が心地よいのかも知れないなと思うのです。ヨーガの練習で自分を認めていく作業が嬉しいのかも知れないなとも思うのです。

だってヨーガの練習って自分一人でやるものだから、人と比べなくていいし人の評価を気にしなくていいし勝ち負けといったくだらない価値観は皆無ですからね。「え、ヨガって一人でやるものなの。私の行っているヨガクラスは参加者がいっぱいだよ。」はいはい。そうですか。それはね、多数が参加するレッスンでも結局は自分で動いて自分で呼吸して自分で色んなことを感じているでしょ。だから一人なの。僕はこのように言うのです、ヨーガの練習は他人事ではなく自分事なんだよって、自分と向き合うところからヨーガは始まるよって。

レッスン中のヨーガの先生なんてオプションにしか過ぎないと思うのです。主役は先生じゃなくレッスンに参加したわたしたち一人一人です。

例えば、いくら素晴らしき教えを受けたところで受け取り方が悪ければ身体も心も何も変わりませんよ。僕はヨーガのレッスンって自己セラピーだと思うのですね。そのセラピーを成功させるために先生の声がけやリードがあるのであって先生が生徒を変えているわけじゃないのですよ。それをまずは理解しないといつまでたっても先生に依存したまんまです。

ヨーガをするにあたって動機があればいいかなと思うのですが、それは「変わりたい。」という想いですね。動機がなければものごとは1ミリも動き始めませんよ。

そしてそこから、「自分は変わるし、いつでも変われる。」という自分を信じる気持ちをもつことでヨーガの力がうんと発揮されるのだと思います。

そして最大限の努力をしつつ継続することがわたしたちを求めた場所へ運んでいってくれるのですよ。そしてそれでも求める場所に辿り着けないことがあります。その時も四の五の言わずにただ継続するのみです。

そしてそれ以上これ以上はもう無理かなというときはどうしましょうか。

はい潔く諦めましょう。そしてあとは自然の流れや変化に任せるのです。

全てのものごとはうまいことおさまるべき場所へおさまるようになっているのです。

 

いやいやすみません。ついつい熱い語りをさらっとしてしまった上で、再び僕の話。

僕はある脳みその特性によって社会や人との関わりが上手くできないのだよということでした。だから生きていきにくい・・・だけどそんな自分でもヨーガとの出会いで変われた。ヨーガをはじめた当時は自分が分からなかった、僕はいったい誰で何のために生きているのかが全く分からなかった。だから享楽や快楽に身を投じ心身ともに疲れきっていたのだと思う。

でも運良くヨーガに出会ったんだけど、その実践の中では様々な葛藤があったよ。たとえば天使と悪魔が戦うシーンが漫画やアニメではよくあるけども、良き生き方をしたいと願う天使が何度も何度ももっとボロボロになるのだーという悪魔に負けていた。でもね、そんな葛藤や良くも悪くも経験を積み重ねて考えて考えて生きてきた。そのなかでひとつの真理と言うか「あ。」と気づいたことがあったのです。それが難しく言うと二極を超えて存在するということ。つまりは良い生き方とか良くない生き方とかにこだわっているうちは結局は落ち着かないんだよねって。それならばものごとを中立の立場で見てみたらいいじゃないと。そうするとあらあら不思議なもので天使と悪魔がひとつになっちゃいましたよ。つまりはその天使と悪魔の合わさったのが僕だったんですね。

そこに自分らしさ、つまりはアイデンティティを見つけることが出来たというお話でした。

 

おしまい

『そこへ至ること』

 

 

 

あなたはいま元気ですか。

あなたはいま健康ですか。

あなたはいま幸せですか。

あなたはいま満たされていますか。

あなたはいま平和ですか。

あなたはいま静かですか。

あなたはいま穏やかですか。

あなたはいま微笑んでいますか。

 

ではわたしはと言うと、いつもそのようにあろうと心がけています・・・

 

 

ところでこのような話を聞いたことがありませんか。

 

「平和という世界はなく、平和に至ろうと進む道こそが平和である。」

 

「平和な世界はない。」ずばりそのように言われてしまうとなんだかがっかりしますよね。

だけどよく考えてみると実はこれけっしてネガティブではなく、むしろポジティブなものなのですよね。

 

たしかにこの世界を見ていると平和な世界とはほど遠い悲惨な出来事がたくさん起こっています。

現実的に見て、だから平和な世界はないのだと・・・

だけども悲惨で平和ではない世界の実情を目の当たりにしたときある人々は、戦争反対や平和な世界を取り戻すべきだと声を荒げてみたり正義と称して暴力(言葉も行動も含む)をふるってしまうこともあるのです。それこそが平和という世界からかけ離れていくことになるとも考えずにです。

 

思考とは思い考えることであり、思想とは違うものです。

人間は様々な思考をすることでものごとや問題を建設的に解決していくことができると思うのですが、思想というものは人々を区別し差別し自と他の対立を引き起こす可能性のあるものなのではないかなと思うのです。

 

しかし僕は、人間には思考と同じように思想も大切であると考えます。

思想とは簡単に言えば自分の信条だったり信仰だったりです。

 

思想があるからこそ自分の人生での軸が生まれ自分だけの生き方ができるのでしょう。

他人や社会ありきの自分ではなく、自分ありきの他人や社会。

他人や社会という自分の外にあるものに依存と執着をすることはわたしを弱くします。

他人や社会ではなく自分の内にある感覚、思考、感情、直感に従うことは依存や執着ではありません。それは反対にわたしを強くします。

 

そして先ほどの思想について・・・

思想とは各々が信じる考え方や生き方の指針となる哲学です。だからどのような思想を持とうが自由です。だけどもこの世は思想を押し付けてくるし、なによりも自分で思考することなく他人の思想を鵜呑みにしてしまう。

だから僕たちは弱くなっていく・・・

 

はじめの問いかけに戻りましょう。

 

あなたはいま元気ですか。

あなたはいま健康ですか。

あなたはいま幸せですか。

あなたはいま満たされていますか。

あなたはいま平和ですか。

あなたはいま静かですか。

あなたはいま穏やかですか。

あなたはいま微笑んでいますか。

 

そのことについて、他人や社会が決めた価値観に流されていませんか。

周りの人がそう言っているから自分もそうしていないとダメだと思い込んでいませんか。

 

私たちは他人や社会ありきの自分で生きていくのではなく、自分ありきの他人や社会を生きていくのです。

 

そのためには元気、健康、幸せ、満たされ感、平和、静けさ、穏やかさ、微笑みを無理にいますぐ求めなくてもいいのではないかなと思うのです。周りに合わせようとすればするほど自分を見失い、そうなれない自分がますます嫌いになってしまいます。またそうなることを過剰に期待して結果ばかりを追い求めて焦りと緊張で生きていく。

 

私たちは多くを求めます。しかしすぐには理想には至れません。

だからこそ自己否定や自己嫌悪の感情が起こるのではないかなと・・・

 

でも大丈夫です。

全てはそこへ向かっている過程が大切なのです。

そこへ至ろうとすることを止めないかぎり元気、健康、幸せ、満たされ感、平和、静けさ、穏やかさ、微笑みを失くすことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『家族と愛について』

 

 

僕はいま44歳。

メインのお仕事はヨガの先生をしている。

かれこれ10年以上契約させていただいているスタジオからのお仕事がほとんどだ。

大阪以外に、東京、福岡、名古屋などでもお仕事をさせていただいている。有り難いものだ。

だけどその収入は僕の年齢からすると大したことはなく、いやむしろ少ないだろう。

それに対して不満があるわけではない。稼ぎや収入とは自分の存在が社会に影響を与えた結果でしかないのだから仕方がない。

 

「自分の必要最低限の稼ぎがあって必要最低限の生活ができればそれでいい。」とかそれっぽいことを言う人がよくいるが、実は僕もそのように考えている。しかしそれは独り身であればの話だ。

 

僕にはいま家族がいる。

妻と息子と僕の三人家族。僕はその〈家族〉というチームをとても大切に思っている。

チームワークやチームプレーという言葉があるようにチームとは共にはたらき共にうごき共にあそび共にふざけ共にかんがえる仲間のことでもある。だからチーム内の結束がなかったり同じ方向に気持ちが向いていないと大切な仲間という関係性は脆くも崩れてしまうのだろう。それを崩したくはないし崩すべきではない。

 

「またなにを綺麗事を並べているのだ。」ある人はそのように言うが、なにが綺麗事なものか。綺麗事だなんて反論する人はおそらくシャイなだけなのではないか。家族愛を語ることが恥ずかしいのではないか。

 

僕は語る。

 

愛。それは見返りを求めないもの。

愛。それは見守ること。

愛。「その対義語は無関心である。」とマザーテレサは仰られた。なるほどそのとおりだろう。

僕は愛にはいろんな形があるとは思わない。愛とは普遍的なものだ。

家族とは愛のあるチームであり、そのようにあるべきだろう。(いやそうありたいという願望か・・・)

 

 

会社や組織、社会や友人関係について、言い方は悪いが僕はその場しのぎのチームであると考えている。

そこに依存心と執着心をもつ限り前には進まないと思っている。見限られるまえに見限る勇気。だからといってそれは絶縁するということではなく自分の生き方や家族とのチームプレーを考え尊重した上で勇気をだす「一歩前進」のことだ。

僕にはよく分からないが、熱い友情は大切なのだろう。熱い友情は助けになり励みになるのだろう。

しかし僕は冷めている。なぜなら熱さと冷たさは表裏一体だから・・・だから僕は人づきあいが苦手なのだろう。

新たな人と出会う時、熱いハグと熱い握手の裏にある冷たさをついつい見てしまう。

 

ある人は「お金を稼ぐためには人脈が必要で、そのためにはあざとくあれ。」と言った。

僕は「嫌だ。」と答えた。

 

僕は知っているし分かっている。あざとい人間ほどお金をたくさん稼げるということを。

分かっているからこそ、僕はそうありたくないと天の邪鬼になってしまうのだ。

 

そんな僕には「コイツが親友。」などと自信をもって言える人はいない。そんな僕はやはり社会に馴染めず社会に対しての影響力も少ない。その結果が収入なのであるということはよく分かっている。

 

ある人が言う。「分かっているなら稼げるように働けば。」

 

でも周りから何を言われても僕の生き方は変わらず、僕は僕の世界の中でしか生きていけないのだ。

この世界は自分が見たいように自由に見られるし、自分が生きたいように自由に生きられる。

またある人は言った。「自分がやりたいことだけで生きていきたい。しかしそのためには家族や子供が邪魔なのだ。」と。しかしその家族と同じ方向を向いて歩み始めたとき、その存在は邪魔者なんてとんでもない。

その存在は最高の仲間であり〈家族〉という最強無敵のチームとなるのだ。

 

 

 

 

 

 

『わたしらしさ・・・』

 

わたしとあなたは違う人です

 

それはもう絶対的に疑いようのない事実としてそこに在ります

 

だけども

わたしは「あなた」と呼ばれることもあるでしょう

あなたは「わたし」と呼ぶこともあるでしょう

 

ではいったい

わたしとあなたはなにが違うのでしょうか

 

それがあることでわたしは〈わたし〉となるのでしょうか

ではそれがなければわたしは〈わたし〉ではないのでしょうか

 

いったいどこのタイミングでわたしはいま〈わたし〉と考えられる〈わたし〉になったのでしょうか

この〈わたし・・・らしさ〉をどこまで失ったとしてもわたしは〈わたし〉として存在していられるのでしょうか

 

〈わたし〉は思うのです

〈わたし〉とはマイナスの存在であると・・・

〈わたし〉になるために世の中はわたしにプラスしていくことが多いのではないですか

そうすることでより〈あなた〉ではない〈わたし〉になれるのだと信じ込まされています

 

しかし本当にそうですか

〈わたし〉はそうではないと考えています

 

 

 

 

 

 

 

 

『感じて動く』

 

僕はヨーガのクラスに対して、その人の想像力が刺激されるようなイメージできる言葉がけでおこなうことが大切であると考えています。

そしてヨーガのクラス指導は1時間半ほどのライブステージであるとも考えています。

だからクラス中は僕自身もヨーガモードに切り替わります。

それはいわゆる変性意識(トランス状態)のようなもので、日常ではまず出てこないような言葉や表現がポコポコとわき上がって来るのです。

そんなとき僕は、「天から言葉が降ってくるのだ。」という表現をするのですがそれは不思議でもなんでもなく

僕の意識の深い領域いわゆる潜在意識からその言葉達はポコポコと溢れてくるのです。

僕にとってヨーガのクラスを行う時間とはこの潜在意識の蓋をパカッとあける時間でもあります。

 

そのような時間は僕と参加してくれた方との心と心での対話が可能になるような気がします。

言うなればヨーガのクラスは僕とみんなのコミュニケーションの時間。

そのたった1時間半の中で体はもちろん心も大きく動くように声をかけています。

感動することで心は打ち震えます。

その心の震えこそが肉体への刺激であり、人生をよりよく歩むための原動力となります。

つまり心が震えるような感動があってこそ体を使ってアクションを起こすことが出来るのです。

まさに読んで字の如く、感じて動くことが感動です。

 

お金を払って時間を割いてわざわざクラスに来てくださった参加者の方々にいかに自分の世界感や空気感を伝えられるか?

いかにその時間や感動を味わっていただけるか?

僕の中ではそこが一番大切なのです。

(ときに押しつけのような説教臭いことも話してしまっているようですがそれも潜在意識の仕業ですから僕の顕在意識にはどうすることもできないのです。だから嫌だなって思う人は二度とクラスに来ませんね。でもそれでいいのだーとバカボンのパパも言っていましたから。)

 

 

そしてここからが大切で、クラスから離れた後もその時に体験したことの余韻を味わい雰囲気やイメージを思い出しながら日常を楽しんでもらえるか・・・

実はクラス内で行うことよりもそちらの方が僕にとっては重きを置きたい部分で、それこそが僕のヨーガのクラスづくりのコンセプトでありテーマなのです。

 

ヨーガの学びや教えは日常でこそ役立てるべきものではないでしょうか。

日常生活にもその体験や気づきを持ち帰りいただき自分で実践できることを知ってもらいたいのです。

ヨーガの先生なんてものは、悪い言い方をすれば所詮は参加者の引き立て役で大層なことも伝えていません。ごく当たり前なことをそれっぽく(笑)話しているだけです。でもそれをクラスだけで終わらせるのではなくいかに自立心をもって日常に戻っていただけるか。そしてそれが叶ったのであれば自分の役目はもうおしまいです。

だけど運動という観点だけでヨーガを見ていると日常に役立つものは肉体的な健康だけになってしまいます。そのようなクラス展開をすれば参加者の方は離れていきません。つまりヨーガの練習で大切な要素であるを継続を促すことができるのです。(だけどもそれを依存とも言うとか言わないとか・・)

まあでもそれでも肉体的な健康は人間の幸せのために大切な要素ですからいいのでしょうが・・・ね。

 

 

 

とにかく、クラスから離れた後の在り方をお伝えするためには理論や理屈だけではなかなか難しいと思います。

 

例え話や表現、イメージや想像力を働かせて自分の生活にいかに体験や気づきを落とし込んでいけるのか。

それがとても大切でそうしてはじめて変わり始めることが多いと思います。

 

だからこそ感動を生みだすための語彙力が必要で自由に表現するためのイメージできる脳みそが必要なのです。

 

そのために昔から僕が実践することがあります。それは本を読むこと、絵を描くこと、ものづくりをすること、山に登ること、海に潜ること、ふざけること、バカ笑いすること、そして少しのスピリチュアリティー・・・

 

その全てが僕にとって必要なことなのです。まずはなによりも自分自身が感動する日々を送っていないといけませんね。

 

 

『自然のままに自然とともに』

私yamaは2002年になんとなーくヨーガを始めてみたわけですが、そのなんとなーくが自分のお仕事となりました。

で、ヨーガを人にお伝えし始めなんともはや15年くらいになりました。

今までにたくさんのクラスを(なんとなーく)開催しご縁あるさまざまな方々に出会わせていただき、そこで好かれたり嫌われたりしながら今までぼちぼちとやってきました。

本当に有り難いことでございます。

 

さてさて、この日本で「ヨーガ」がブームと呼ばれてかなりの年月が経ちます。(ちなみに現在は第3次ヨーガブームだそうで、そんなブーム以前からヨーガ教室(道場)をされている諸先輩方はたくさんいらっしゃいます。)

そのブームのおかげかどうかは知りませんが世の中にはたくさんのヨガスタジオがあり、いろんなクラスが開催されヨーガの指導者養成講座も開催されているようです。通常のレッスンよりもその養成講座にはたくさんの人が集まります。(スタジオとしては儲かるから・・・←内緒)

 

では問題です。

養成講座さえ出ればレッスンができるのかなーって?

 

では答え。

まあ、表面的に形をなぞるだけのようなレッスンであれば誰でも出来るでしょう。

 

ヨーガには人を良くも悪くも変えてしまう力があると思うのです。

それなのに、ああそれなのに。そんな簡単なことでいいのかなと・・・

 ヨガの業界にいると見えてくることがありまして・・・

 

それはインスタントにヨガのインストラクターの方がどんどんと量産されていくことです。

これはまさに現代の消費社会と同じなのではないかなと・・・

どんどん作って作って売るだけでその後の処理をしない。

ゴミが増え環境が破壊されそのしっぺ返しが自分たちにかえって来ることを想像できずとにかく量産するのみ。

そんな企業の作り出した情報操作にまんまと流されてとにかく流行っているからと簡単に買う。

そして同じことを繰り返していく。

次々と新製品が生み出され壊れる前に買い替える。(知識を使いこなせないうちから次の学びをしたがる)

ブームや情報は作り出されたものがほとんどです。

自分の思考をストップさせて、とにかくまわりに流され続ける。

そんな生き方を本当の意味で自分の人生と呼べるのかな?と思うのです。

 

唯一の存在である「わたし」

そのわたしの声を無視して生きてはいけないはずなのです。

 

 

話が変わって・・・

世の中にごまんと溢れかえるヨガをお仕事にしている方々のことをある生徒さまはそのような方々を二分して呼んでいましたよ。

.船礇蕕ぅ茱インストラクター

▲茵璽の先生

ちなみに、僕の見解を付け足してみると・・・

[行を追いかけ、ファッションに命がけで優越感にひたっている方。

⊆分と向き合う時間を大切にしながら謙虚にいる方。

(まあ僕はおシャレにシュッとしたことが出来ませんので若干のひがみが入っているのかも知れませんが・・・)

とにかくこれからは今まで以上に自分らしく自分のスタイルや考え方をお伝えしていきたいとそのような想いでやっていきます。

 

 

はは、いろいろと毒づきましたが偽って生きたくないのでね。

僕は人に気に入られるために存在していませんから。

僕は僕の人生を僕自身のために生きていくのです。

「好かれるも嫌われるも我人生なり」

そんな人生の中で波長の合う方とは嫌でも繋がっていくのでしょう。波長の合わない方とは離れていくだけでしょう。ただそれだけです。

 

 

(僕はやがていなくなります。それは死ぬという意味ではなく屋久島と言う新天地への移住を家族ともども心に決めているからです。その時に今のままの仕事ができるはずはなく新たな世界に生きるための準備をしなくてはいけません。

それならば今あるものに依存していては生きていけないなという思いで決意を新たにしました。実はこのブログは過去の記事に修正加筆したものです。)

 

 

てことでぼちぼちとそのような自分らしさをお伝えできる講座を始めていきたいなと考えています。

テーマは『脱力』そのためにヨーガ・呼吸法・瞑想法・様々な思想や哲学を盛り込みます。

森羅万象・無為自然・心身一如・知行合一・縦横無尽に話が飛び回ります。

コンセプトは、「ぼちぼちゆっくり自然のままに。脱力した生き方でわたしらしく。」

とにかく流行らないことや冷静に考えると当たり前のことをやりますから、それでも興味ある人はどーどーぞよろしくどーぞ。お願いいたします。

 

人生の中で波長の合う方とは嫌でも繋がっていき、波長の合わない方とは離れていくだけでしょう。

ただそれだけです。とてもシンプルです。

 

yama拝

 

 

「ちょっと早めの年末年始のご挨拶」

慌ただしく過ぎ去る日々、今年もあと少しであっという間に終わりそうですよ。

このドタバタの季節をいかがお過ごしですか?そして2018年はどのような一年だったでしょうか?

ふむふむ、なるほど・・・それは良かったですね。ほおほお、それは大変でしたね。

とにかくまあいろいろあった一年だったのですね。

オツカレサマデシタ。

 

 

僕たちの多くはとにかく結果をすぐに見たがるのですね。だからとにかくいつもいつも焦っているのですね。

心はいつもそわそわザワザワして頭の中は未来の結果のことばかりに向いているので、目ん玉も顔も姿勢も前に飛び出していきそうなくらい前のめりです。その結果、つま先体重になってしまって実際につまずきやすくなる人もいます。腹部や胸部の圧迫から内臓の不調や呼吸の乱れが生じ、その肉体的な不調が心の状態にも影響を与えてしまいます。そうしてますますそわそわザワザワしてさらにはイライラカリカリして他人にガツンと当たってくる人もいます。ダメですよ。もっと謙虚に生きていかないとね。

 

とまあ偉そうに語っている僕はと言うと・・・

そうですね、謙虚だったかどうかは置いといて・・・

今年も相変わらずのんびりだらだらマイペースに過ごしてきたのではないかなと思います。

「ほおほお、でもそれってあなたがもって生まれた性質とか性格の問題じゃないの?」なんて言う人がいるかどうかは知りませんが、僕はいまでこそマイペースにのんびりしていますが実はとってもソワソワ落ち着きがなく止まることなく動き回っている人間でした。そしてマイペースとはほど遠いミーハーで周りの意見や情報に流されている人間でしたよ。だけど今の自分は昔に比べるとかなり落ち着いているのではないかなと思う次第です。

それはなぜかと言われると、「まあヨーガに出会ったからだよ。」という如何にもヨーガ指導者にありがちな「ヨーガはとっても素晴らしいのだー」みたいなありがちな返答をうっかりとしてしまいそうですが・・・でもその返答ってとっても抽象的でよく分からないですからね。

だからそこはそう言いたい気持ちをぐっと堪えて違う返答にしましょう。

 

なぜ僕が落ち着きを取り戻せたかと言うと・・・

「結果にこだわることをやめたから。」ですね。

たったそれだけでございます。もうちょっと詳しく・・・

 

一般的に”結果”なんてモノは絶対的に未来にしか存在しないものでしょう。

だけどもヨーガの哲学では”結果”というものは今ここに存在するのだよといっていますね。

 

これってどちらも別に間違っているわけではないですよね。そう思いませんか。

どちらの文脈も”行為の結果”として”未来の結果”があるよと言っているわけですよね。

今この瞬間に何をするのかが、今から先の未来を決めるということです。

 

例えば、

たくさんの利益(未来の結果)を出したければ、たくさん働くor効率よく利益を出す方法を考えるetc...(今ここの行為)というようなことです。また未来への投資という考え方もできるわけですね。そのために資格を取ることも今ここの行為によって未来の結果を変えようとしているわけですよね。

つまり今この瞬間に今ここで何をするのかということが未来の結果な訳です。

だから”結果”というものは未来にも今ここにも存在するのです。

 

なんのこっちゃとややこしい話になってしまいました。

さてさて話を戻しましょう。

「僕は結果にこだわることをやめたのだー!」ということでしたが、それは未来の結果が今ここにあるのであれば未来ばっかりを見て浮き足立ってそわそわしていても何の意味もないのだよね。ということに気づいたからです。

ここでいう”結果”とは将来的な夢や目標のことなのですが、そのことを考えたりぼんやり空想する時間は必要だろうなと思いますよ。

だけど未来のことばかりを考えていたところでは残念ながら未来は何も変わらないのですよね。そのことに気づかず僕たちは未来にばかり意識を向けてどうしようどうしようと焦るのです。

「だから焦っても意味はないですよと・・・」

焦って焦ってよりよい結果が訪れるのであれば世の中のほとんどの人がこんなにも苦しんでいないのではないかなと思うのです。

 

そう、僕たちは苦しんでいるのです。

その原因は今ここをどのような状態で過ごすのかによって生みだしているのですね。

その今ここの状態というのが、どこに意識をフォーカスしながら過ごすのかということです。

流行の言葉を使うのは躊躇われるのですが、あえて言うならそれこそがいま流行の「マインドフルネス」ですね。

横文字にしたとたんとってもカッコいいなーと思います。それはつまり気づきの練習ですよ。

気づきは過去や未来に起こるものではなく、絶対的に今ここにしか起こりません。これはもう絶対です。

 

例えば、いま読んでいるこの文章を50音の一文字一文字として読んでいる人はどれくらいいますか?

い・な・い・と・お・も・い・ま・す・よ・だ・っ・て・じ・か・ん・が・か・か・る・し・め・ん・ど・く・さ・い・し・ね・

 

ほとんどの人が文章を読みながら「この文章の並びならこの単語だろうな。この単語の次に続く単語はこうかな。」といわゆる予測で読んでいると思います。そう。いわゆる予測変換。そしてそれこそが未来を先読みするということです。文章を読むことに対してさえも僕たちは焦っているのかも知れませんね。

そして僕が面白いなーと思うのは、予測変換ってたまにミスが起こることあるでしょ?メールとかで誤字が起こるのはほとんどの場合は予測変換のミスなのではないかなと思います。つまり僕たちは予測変換を信用しすぎてしまうあまりに疑うことをなくしているのですね。ということは未来の結果を予測(こうなればいいな、こうしたい。)しすぎてそのことだけになってしまい、今ここでミスを犯していることに気づけていないのかもしれないですよね。

 

だから予測変換をミスらないために必要なことは、今ここの一字一句を丁寧に見つめながら読み進めるということです。

それはあくまでも例えですが、気づきをもつ練習というのはそのようなものでしょうね。

 

 

ああ、もうなんだか長くなってきたのでこのあたりでまとめてしまいます・・・ムリヤリ。

 

・今ここに意識を向けて丁寧に行為することで未来は自ずと訪れるのだ。

・未来の結果は今ここで生みだし続けているのだよ。

・「その行為の結果が未来の苦を生みだすのだ」とヨーガの師たちは言っています。

・だからこそ今ここの行為に専念することで未来は良くも悪くも変わるのだ。

・どうせならよりよい人生を生きていきたいなと思うので今ここの行為をよりよい結果を生みだすための行為に変えていくのだ。

・だけど未来の結果ばかりにとらわれて今ここに落ち着くことを忘れてしまいがちだから意識を研ぎすますのだ。

・それが気づきの練習。つまりそれこそがヨーガの実践なのだ。

 

 

 

以上で何末年始のご挨拶と代えさせていただきます。チャンチャン・・・

2018年度お世話になった方々、本当にありがとうございました。2019年度も引き続きよろしくお願いいたします。

相変わらずのマイペースをかえるつもりはなく、ご迷惑をおかけすることもあると思いますが今までどおり温かい目で見てやってくださいませ。

残りの今年を悔いなく、新たな年を喜びに満ちて過ごされますように。

 

では僕は明日から旅に出てきます。

PCは置いていくのでちょっと早めのご挨拶をさせていただきました。

 

 

ではまた来年お会いしましょう。

ありがとうございました。

 

pitori yama

 

 

 

 

 

 

 

ことばについての考察

 

人は言葉によって感動する。
しかしそれはただ単にいい言葉や美しい言葉を聞いたり読んだから感動するだけではなく、自分が見たもの聞いたもの味わったもの嗅いだもの触れたものに過去の経験や価値観を通じて、つまりは自分の感受性をプラスして思考を巡らせ、それによって感動するのだ。


そして、その思考とは言葉によって生みだされるものだろう。

思考を巡らせるとは益や富を生みだすような建設的な正しいものであれ、欲や俗を生みだすような非建設的な雑念であれ、結局は言葉の羅列に過ぎず、そこにさまざまな意味をつけ、その意味がより多くの他人に受け入れられれば正しい思考と呼ばれ、より多くの他人が受け入れがたいものであれば悪い思考と呼ばれる。

だがどちらも所詮は文字の羅列であり言葉の遊びにしか過ぎないのではないか。

そもそも良い悪いという判断は他人が決めるものではなく主観的なものであるはずだ。

思考というものがある限りわたしたちは二極の世界に生きざるを得ない。

二極とはジャッジのある世界であり、わたしたちの心を大きく乱す原因となるものだ。

しかし思考なくして生きていくことなどできるはずはないと多くの人は言う。

 

パスカルの記した”パンセ”の中に有名な言葉があるのを知っている人も多いでしょう。

「人間なんてモノは自然の中では最も弱い葦に過ぎないのだ。しかしそれは考える葦なのである。」

はたして本当にそうなのか。

確かに人間にとって思考は大きな武器で、人間は考えることによって文明を発展させてきた。

しかし、考えることで同時に争いも生みだしてきたはずだ。

例えば、「神。」という言葉。

その言葉は、「か」「み」という二つの文字が並んでいるだけだが、二つが合わさることでその言葉には強い力が宿る。そしてそれは受け取る人によって違うイメージや役割としての「神」が浮かぶのだろう。

深くは触れないが、そのことが地球人を様々な人種に分類し各々の信じる「か・み」の代弁者となり、意見の合わないものを敵と見なし攻撃する。そして報復と称して仕返しの攻撃をする・・・悲しいかな、これこそまさに負の連鎖。

神様論はデリケートなので程々にしておくが、そもそも「神」とは名付けられるものではなく、意味のある言葉で説明できるものでもなく、ましてや姿形のあるようなものでもなく、「か・み」という存在でしかないのだろうと思う。

いや「か・み」でさえも言葉としての説明なので違うのか・・・

 

では例えば・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような意味も何もないような空間のことなのか。

いやここにさえも意味を見いだそうとしてしまう自分がいるだろう。

 

 

 

ところで、心乱さず生きていくためにはどのようにすれば良いのか・・・
それはおそらく簡単だ。

それは二極を超え、もう一つの視点から世界を眺めてみること。すると見えてくる世界があるのだろうと思う。
それは一元的な世界。
読んで字の如く、元は一つという世界観だ。
そう、この世界は一元的なものでしかない。
良いも悪いも、快も不快も、世界にある全ての物事や現象は一つの線上で繋がりあっている。
もしくはよく言われるようにコインの裏表でしかないのだ。

「か・み」でさえも元は一つで人間がより良く生きるための指針として、その存在に名前を付けたに過ぎないのではないか。ある人は「愛」と呼び、ある人は「タオ」と呼び、ある人は「ブラフマン」と呼び、またある人は「宇宙意識」と呼び、またある人は「神様」と呼ぶに過ぎない。

 

わたしたち人間は考える。

人間だからこそ考えるのだ。

そして考えるためには言葉が欠かせない。しかし言葉が生まれる場所には意味が生じ、意味が生じるからこそ自と他の区別が生まれる。そして自と他の区別が生まれるからこそ混乱や苦しみが生まれ、さらには争いが起こる。

 

ぼくは争いたくない。

だから言葉で考えることをやめるように努力する。

しかしそれは言葉を忘れ思考能力を失うということではなく、思考が働かないような時間を意図的に生みだすことだ。

 

 

 

それは感じるということ。

二極を超えて一元的に世界と向き合うということ。

 

 

 

 

 

 

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『からだとこころといきと』

 

からだとこころは、ひとつにつながっています。

 

たとえば、からだが緊張している時はこころもドキドキしているでしょう。

こころがそわそわ落ち着かない時はからだもなんだかフワフワしているでしょう。

ほらね。やっぱりからだとこころはひとつにつながっているようです。

 


そしてここからが大切なこと。
わたしたちはからだを治したければからだをなんとかしようと、そのことばかり考えます。

こころを治したければ心をなんとかしようと、そのことばかり考えます。

たしかに間違いではないですよ。でもそれとは違う方法があることも知っていてください。

それは、からだを治したければこころにも働きかけること。

こころを治したければからだにも働きかけること。

これが大切なことです。

ところでからだの痛みや不調ってなぜ起こるのだろう。

怪我や病気によって痛み不調が起こることはたしかにありますよ。それは絶対。

だけど怪我も病気もない。そんな原因不明の痛みや不調も世の中にはたくさんあるようです。

お医者さんも頭をひねってしまうような謎の痛みや不調も実際にたくさんたくさんあるのです。

ではそのような人は一生ずーっと痛みや不調を抱えながら生きていかないとダメなのかな。

それってしんどいし辛いなって思う。

思い出してみて。からだとこころの関係性を。

ひょっとしたら原因不明の痛みや不調はこころが生みだしてしまっているのかもしれないよってこと。

じゃあ解決の糸口はなんとなく見えたんじゃないかなって思う。

 

それはこんなことです。

原因不明な謎の症状や不調はこころに働きかけてみるといいのかもしれないよってこと。

ふむふむなるほどねーって。あれ、でもこころに働きかけるってどうやって・・・?

 

そう。いいところに気づきました。
その働きかけ方がわからないと痛みや不調を改善することはできないよね。
最初にからだとこころはつながっていると言いました。実はもうひとつ、からだとこころにつながっているものがあるのですよ。

それは呼吸です。


ちょっと日常の自分を思い出せるかな。

こころがそわそわ不安でいっぱいの時の呼吸がどうなっているのか。

からだがガチゴチ緊張している時の呼吸がどうなっているのか。
たぶん思い出せたのではないかなと思うよ。

つまりこころの状態は呼吸の状態によくよく現れているのですね。

ということで、ほら。こころに働きかける方法の謎が解決しましたね。からだに痛みや不調がある原因は必ずしもからだだけにあるわけではありません。

その原因はこころにある場合もあるのです。その原因を取り除くためにこころの現れである呼吸というツールを利用することで原因不明なからだの痛みや不調も徐々に改善されていくのです。

ゆっくり焦らずに練習していきましょう。

 

自然はいきなり変わらず目に見えないところで刻々と変わり続けています。

わたしたちも同じ自然の一部です。良くも悪くも変わり続けることが自然である人間なのです。

だけど目的をもって努力することで良い方向に変わっていくことができるのが人間としての素晴らしさだと思うのです。

 

 

〈まとめ〉

*心と身体と呼吸は三つでひとつのものであること。


*痛みや不調の緩和・改善にはからだだけではなくこころにもアプローチすること。


*こころへのアプローチは呼吸を介しておこなうと簡単で効果的であること。


*呼吸のポイントは、「リラックスした姿勢でおこなうこと。」「無理矢理にしないこと。」「まずは吐ききる練習をすること。」「目を閉じて息の流れを感じること。」「想像力を働かせてくださいね。例えば、全身に暖かく美しい光や気のようなものが満ちていく・その光や気が痛みや緊張、コリやこわばりのある部位にも満ちていく・さらに背骨の中の空洞をなめらかにスムーズに通り抜けます・それらが通り抜けたあとにはとても温かい余韻が味わえるでしょう。」

『ぐるぐるグル』



ぼくは現在、ヨーガをお伝えすることで生きるための糧を与えられています。

そんなぼくは、ヨーガのクラスで生徒さんに偉そうに話して指導しているけども、それらは全て自分に対しての言葉だったりします。

ということはですよ、
例えば、自分の中にグル(師)がいて、そのグルが生徒である自分(ぼく)に話しかけてくれていて、人生や生き方をより良い方向へ導いてくれているということかもしれないなーと考えるわけです。

だけど出来の悪い生徒(ぼく)はグルの言うことを聞かず自分勝手に解釈して自由気ままにやりたい放題。日常生活が乱れることも多々あるわけです。

ヨーガでは一般的にグルの言うことは「絶対」だそうです。

だけど出来の悪い生徒は絶対的な教えをなかなか素直に受け入れたがらない。 だからこれからもまだまだ教えが必要なわけで、まだまだずーっと導いてもらわないといけないのですね。

だから今日も僕は偉そうに話して指導してしまうのです。まだまだ未熟なのにね。

でもそれは全て自分のためになのです。
そのために生徒さん達がいてくれて、その生徒さん達がいてくれるからぼくは語ることができるわけです。
有り難いものです。