『家族と愛について』

 

 

僕はいま44歳。

メインのお仕事はヨガの先生をしている。

かれこれ10年以上契約させていただいているスタジオからのお仕事がほとんどだ。

大阪以外に、東京、福岡、名古屋などでもお仕事をさせていただいている。有り難いものだ。

だけどその収入は僕の年齢からすると大したことはなく、いやむしろ少ないだろう。

それに対して不満があるわけではない。稼ぎや収入とは自分の存在が社会に影響を与えた結果でしかないのだから仕方がない。

 

「自分の必要最低限の稼ぎがあって必要最低限の生活ができればそれでいい。」とかそれっぽいことを言う人がよくいるが、実は僕もそのように考えている。しかしそれは独り身であればの話だ。

 

僕にはいま家族がいる。

妻と息子と僕の三人家族。僕はその〈家族〉というチームをとても大切に思っている。

チームワークやチームプレーという言葉があるようにチームとは共にはたらき共にうごき共にあそび共にふざけ共にかんがえる仲間のことでもある。だからチーム内の結束がなかったり同じ方向に気持ちが向いていないと大切な仲間という関係性は脆くも崩れてしまうのだろう。それを崩したくはないし崩すべきではない。

 

「またなにを綺麗事を並べているのだ。」ある人はそのように言うが、なにが綺麗事なものか。綺麗事だなんて反論する人はおそらくシャイなだけなのではないか。家族愛を語ることが恥ずかしいのではないか。

 

僕は語る。

 

愛。それは見返りを求めないもの。

愛。それは見守ること。

愛。「その対義語は無関心である。」とマザーテレサは仰られた。なるほどそのとおりだろう。

僕は愛にはいろんな形があるとは思わない。愛とは普遍的なものだ。

家族とは愛のあるチームであり、そのようにあるべきだろう。(いやそうありたいという願望か・・・)

 

 

会社や組織、社会や友人関係について、言い方は悪いが僕はその場しのぎのチームであると考えている。

そこに依存心と執着心をもつ限り前には進まないと思っている。見限られるまえに見限る勇気。だからといってそれは絶縁するということではなく自分の生き方や家族とのチームプレーを考え尊重した上で勇気をだす「一歩前進」のことだ。

僕にはよく分からないが、熱い友情は大切なのだろう。熱い友情は助けになり励みになるのだろう。

しかし僕は冷めている。なぜなら熱さと冷たさは表裏一体だから・・・だから僕は人づきあいが苦手なのだろう。

新たな人と出会う時、熱いハグと熱い握手の裏にある冷たさをついつい見てしまう。

 

ある人は「お金を稼ぐためには人脈が必要で、そのためにはあざとくあれ。」と言った。

僕は「嫌だ。」と答えた。

 

僕は知っているし分かっている。あざとい人間ほどお金をたくさん稼げるということを。

分かっているからこそ、僕はそうありたくないと天の邪鬼になってしまうのだ。

 

そんな僕には「コイツが親友。」などと自信をもって言える人はいない。そんな僕はやはり社会に馴染めず社会に対しての影響力も少ない。その結果が収入なのであるということはよく分かっている。

 

ある人が言う。「分かっているなら稼げるように働けば。」

 

でも周りから何を言われても僕の生き方は変わらず、僕は僕の世界の中でしか生きていけないのだ。

この世界は自分が見たいように自由に見られるし、自分が生きたいように自由に生きられる。

またある人は言った。「自分がやりたいことだけで生きていきたい。しかしそのためには家族や子供が邪魔なのだ。」と。しかしその家族と同じ方向を向いて歩み始めたとき、その存在は邪魔者なんてとんでもない。

その存在は最高の仲間であり〈家族〉という最強無敵のチームとなるのだ。

 

 

 

 

 

 

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