ことばについての考察

 

人は言葉によって感動する。
しかしそれはただ単にいい言葉や美しい言葉を聞いたり読んだから感動するだけではなく、自分が見たもの聞いたもの味わったもの嗅いだもの触れたものに過去の経験や価値観を通じて、つまりは自分の感受性をプラスして思考を巡らせ、それによって感動するのだ。


そして、その思考とは言葉によって生みだされるものだろう。

思考を巡らせるとは益や富を生みだすような建設的な正しいものであれ、欲や俗を生みだすような非建設的な雑念であれ、結局は言葉の羅列に過ぎず、そこにさまざまな意味をつけ、その意味がより多くの他人に受け入れられれば正しい思考と呼ばれ、より多くの他人が受け入れがたいものであれば悪い思考と呼ばれる。

だがどちらも所詮は文字の羅列であり言葉の遊びにしか過ぎないのではないか。

そもそも良い悪いという判断は他人が決めるものではなく主観的なものであるはずだ。

思考というものがある限りわたしたちは二極の世界に生きざるを得ない。

二極とはジャッジのある世界であり、わたしたちの心を大きく乱す原因となるものだ。

しかし思考なくして生きていくことなどできるはずはないと多くの人は言う。

 

パスカルの記した”パンセ”の中に有名な言葉があるのを知っている人も多いでしょう。

「人間なんてモノは自然の中では最も弱い葦に過ぎないのだ。しかしそれは考える葦なのである。」

はたして本当にそうなのか。

確かに人間にとって思考は大きな武器で、人間は考えることによって文明を発展させてきた。

しかし、考えることで同時に争いも生みだしてきたはずだ。

例えば、「神。」という言葉。

その言葉は、「か」「み」という二つの文字が並んでいるだけだが、二つが合わさることでその言葉には強い力が宿る。そしてそれは受け取る人によって違うイメージや役割としての「神」が浮かぶのだろう。

深くは触れないが、そのことが地球人を様々な人種に分類し各々の信じる「か・み」の代弁者となり、意見の合わないものを敵と見なし攻撃する。そして報復と称して仕返しの攻撃をする・・・悲しいかな、これこそまさに負の連鎖。

神様論はデリケートなので程々にしておくが、そもそも「神」とは名付けられるものではなく、意味のある言葉で説明できるものでもなく、ましてや姿形のあるようなものでもなく、「か・み」という存在でしかないのだろうと思う。

いや「か・み」でさえも言葉としての説明なので違うのか・・・

 

では例えば・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような意味も何もないような空間のことなのか。

いやここにさえも意味を見いだそうとしてしまう自分がいるだろう。

 

 

 

ところで、心乱さず生きていくためにはどのようにすれば良いのか・・・
それはおそらく簡単だ。

それは二極を超え、もう一つの視点から世界を眺めてみること。すると見えてくる世界があるのだろうと思う。
それは一元的な世界。
読んで字の如く、元は一つという世界観だ。
そう、この世界は一元的なものでしかない。
良いも悪いも、快も不快も、世界にある全ての物事や現象は一つの線上で繋がりあっている。
もしくはよく言われるようにコインの裏表でしかないのだ。

「か・み」でさえも元は一つで人間がより良く生きるための指針として、その存在に名前を付けたに過ぎないのではないか。ある人は「愛」と呼び、ある人は「タオ」と呼び、ある人は「ブラフマン」と呼び、またある人は「宇宙意識」と呼び、またある人は「神様」と呼ぶに過ぎない。

 

わたしたち人間は考える。

人間だからこそ考えるのだ。

そして考えるためには言葉が欠かせない。しかし言葉が生まれる場所には意味が生じ、意味が生じるからこそ自と他の区別が生まれる。そして自と他の区別が生まれるからこそ混乱や苦しみが生まれ、さらには争いが起こる。

 

ぼくは争いたくない。

だから言葉で考えることをやめるように努力する。

しかしそれは言葉を忘れ思考能力を失うということではなく、思考が働かないような時間を意図的に生みだすことだ。

 

 

 

それは感じるということ。

二極を超えて一元的に世界と向き合うということ。

 

 

 

 

 

 

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